難病ALSと闘う inayan777のブログ

私は現在ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘っています。この難病は10万人に1人と言われる原因不明の神経性難病です。今から100年以上も昔に発見された病気ですが、現在の医学では治すことができないのです。症状の進行は驚くほど速く、発症して1年3ヵ月後に胃瘻を造設して、その4ヶ月後には両肩関節機能全廃となり、身体障害者手帳3級(現在1級)になりました。介護認定も行っており要介護5になりました。このブログでは発症してから現在までの経緯や日々進行していく身体の変化、日常生活の様子、現在感じていることなどをご紹介していきたいと考えています。私は同じような難病や病気と闘っていらっしゃる方々と共にこの難病と闘い、絶対に乗り越えていこうと思います。また、この難病に少しでも関心をもってくださっている方々からもアクセスしていただければ大歓迎です。日々進行していく病気との闘いとの恐怖の中で、心だけは絶対に負けないように生きていこうと思います。ともにがんばっていきましょう!!

予期せぬ出来事

3年前に気管切開手術をし、その後人工呼吸器を装着しました。1年後歩行がまだできましたが、頸椎が弱いとの理由でベッド上が生活の場になりました。



足の横への運び、手指の僅かな動きを除くと四肢が麻痺です。

妻が病気なので在宅生活を送るには重度訪問介護制度を利用し、ヘルパーサービスを受けないと暮らしていけない身体になってました。

ヘルパーさんの仕事は家事支援と身体介護がありますが、ALS患者のような重度障害者に必要な胃ろうからの経管栄養や気管切開部からチューブを通す痰吸引は研修を修了している人しか認められてません。



ALS患者に対応できるヘルパー事業所は極めて少なく容易に見つかりませんが、ケアマネジャーさんの尽力でヘルパーによる24時間完全看護が実現しました。

妻はわたしの介護から手が離れ外出も自由にできるようになりましたが、1月に1事業所から労基法に則った社員の休日確保のために、深夜と木曜を除く朝から22時までを休業すると通知がありました。
1週間で48時間抜ける穴を新しい会社で埋めなければなりません。この事業所は月に約500時間入ってましたが、正月明けに突然200時間近くを手放すので3月中に新しい事業所へ引き継いでくださいと言ってこられました。
まさかこんなことが起きるとは!? 寝耳に水でした。


不安を抱えながら毎日を送ってましたが、ケアマネさんが血眼になって3社みつけてきてくださいました。
新しい人が短期間に多く入ることには抵抗がありましたが、面接したらどの方も印象が良く妻も受け入れてくれました。


1社は3週間の同行が終わり今週から入っていただいてます。透明文字盤で伝えられない説明はパソコン足入力になるので疲労が強烈です。



まだ土曜日を含めて週20 時間が未定ですが、4月になっても決まるまでは現状のままで行くと聞いてほっとしてます。

コロナの方は訪問入浴さんで濃厚接触者が出ましたが、休業が短期間で復帰されました。ヘルパーさんが休業にならないことを願ってます。



何が起きるかわからない療養生活ですが、在宅療養を送れることの幸せをかみしめています。






最後までお読みいただきありがとうございました。

8年前の今日はサラリーマン生活を終えた日です

8年前の今日2月28日は会社を病気退職した日です。
前月2週間の検査入院の結果ALSと診断され絶望の淵に立たされてました。退院したら仕事場に戻ることしか頭になかったのですが、家族から1月末で退職してほしいと説得されました。


退院した日の夕刻に会社へ行き、診断書を提出し退職の意思を伝えましたが慰留されました。出社時刻は遅れてもいいので有給休暇を消化して退職を延ばすよう要請され、2月から勤務を再開しました。

右手が上には上がらなくなり肩に痛みがありましたが、パソコンは普通にできて事務には影響がありませんでした。
しかし、毎朝7時15分に出社し22時過ぎに帰宅する体力はもうありませんでした。毎朝6時に目が覚めても起き上がれなく、9時頃朝食をとって11時前に出社してました。


仕事をしている時は病気のことを忘れられるので精神的に楽でした。
しかしながら、このままでは進行していく病気に対し、何らかの対策をとる必要性も感じてました。


経済的なことを考えるとあと半年位仕事の継続を考えてましたが、進行が早まるのではとの不安もありました。幸いにも長男は独立し長女も就職し、住宅ローンの返済も終わってました。発症が10年早かったらかなり逼迫していたと思います。



2月は仕事の傍らで在宅の時間は東洋医学や温泉治療で治らないものかと考え、ネット検索ばかりしてました。
ALS患者さんのブログに目を通したり、ALS協会の存在を知ったのもこの頃でした。また、有給休暇をとって鍼治療のため東京へも行きました。

1ヶ月の間に仕事の引継ぎも終わったので、2月末で退職届を提出し受理されました。


2月28日は就業時間の終わりに挨拶し花束を渡されて終わりました。てっきり送別会があると思っていたのですが、代わりに餞別をいただき少し拍子抜けしました。
食事が少しし辛いことへの気遣いだったのかもしれません。難病を患って辞めるらしいことが伝わっていたので、送別会を開いても幹事の人はどう声掛けしていいのか戸惑いもあっただろうと思います。
21年間慣れ親しんだ会社の去り際は寂しいものでした。



定年退職ならば明日からどうやって暮らそうかと考える方もみえますが、余命が3年〜5年と宣告されたわたしにはいつまでも泣き崩れている時間的余裕はありませんでした。


検査入院していた大学病院の医師からは、毎月の定期受診と当時唯一の進行抑制薬リルゾールの説明だけでした。リルゾールについては余命を約2ヶ月延ばす効果がありますと聞いた時はたったの2ヶ月!?落胆が大きかったです。
これからどう生きていけばいいのか?


毎日ネットで情報収集し、日本ALS協会の存在を知りました。本部へ問い合わせたところ地元の愛知県支部を紹介されました。

早速妻と二人で支部を訪問し在宅医、鍼灸院を紹介していただきました。利用できる社会資源や患者会の話も聴かせていただき道しるべが見えました。温かいことばが何より嬉しかったです。

医師から胃瘻造設と人工呼吸器選択の有無の決断を迫られるのが2ヶ月後にあるとは知らずに、この時は希望を持って頑張ろうという気持ちだけでした。


この後の2年間は先々の療養生活を考えながら、旅行を重ね楽しく過ごせました。
同じALS患者の方との交流もあり充実してました。5年後には気管切開手術をし、人工呼吸器で生きる道を選択をしました。



色々な葛藤があり今も続いてますが、気持ちだけは負けないようにしています。
その根底にあるのはと聴かれたら? 
三つあります。

一つ目はALSを罹患した悔しさからくる負けてたまるかという気持ちです。
二つ目は同じ病気仲間のSNSなどを通してのメッセージです。
三つ目は医療・介護スタッフさまのサポートです。
その他友人からの励ましも忘れません。



多くの方々の支えに感謝し生き抜いて行きます。







最後までお読みいただきありがとうございました。

ワクチン接種について

1日のコロナ感染者が毎日増え続け国内で10万人、わたしの住む愛知県も6000人を超えました。先日往診で3回目のワクチン接種をしました。
前回は38度を超える熱が出ましたが、今回は注射を打って24時間位経ち微熱が出て、夜に37.6度まで上がりました。
カロナールを服用し翌日午後に平熱に戻りました。
わたしのスタッフで訪問看護師さんは既に接種を済ませてるようです。
医療従事者や施設勤務の介護士は早いですが、訪問系のヘルパーや入浴業者は一般の人と同じなので接種券がいつ届くのかわかりません。

ヘルパーや訪問入浴の方は毎日何件も回っているので、常に危険にさらされてます。
訪問入浴は2社入ってますが、先々週1社から連絡があり陽性者が出たので先週休みになりました。もう1社も先週濃厚接触者が出て休みとなりました。
今は1年で最も寒いので楽しみにしていた入浴が中止になるのは残念ですが、この程度のことは昨年経験済みです。


最も恐ろしいのはヘルパー事業所が休業になることです。
介助者がいなくなれば在宅生活が送れなくなり、レスパイト入院しか選択肢がないと思います。



一昨年の秋に20日近く入院しましたが、入退院の時以外はベッドから体を起こすことがなかったので体幹が弱くなりました。また、ヘルパーさんが入れない日はナースコールしますが、看護師さんが忙しいので頻回にコールできませんでした。
医師から全部対応できないので優先順位をつけてくださいと言われ、口腔内に溜まった唾液の吸引、喉からの痰吸引、排尿、よだれ拭きなどを我慢しました。


このような体験はしたくないです。
わたしのような重度訪問介護を受けている療養者はヘルパー介助がなければ在宅生活が送れません。




患者のわたしがワクチン接種を受けていても、介護ヘルパーさん、訪問入浴業者さんが接種を受けなければ意味がないように思います。


昨年の第5波に襲われた時に、わたしは2回目ワクチン接種を済ませてましたが、濃厚接触者(結果は陰性)になり訪問看護ステーション1社から訪問を断わられました。頼りにしていた訪問看護師さんが来なくて摘便の日は困りましたが、別の曜日に入っている訪問看護ステーションの方が代わりにきてくださいました。
濃厚接触者になる要因は様々なので毎日不安を抱えながら過ごしています。

この2年間身近にいる方々が感染者や濃厚接触者になり感じたのは、訪問看護師さんが早々と接種をできるのに対して、同じ訪問系のヘルパーさんは一般人と同じで早期に接種できないことに不公平感を感じました。

自治体の方々はこの現状をご存知なのでしょうか。





最後までお読みいただきありがとうございました。

ALS体験者でないと語れない世界を伝えたい

先月足の症状の対処法について書きました。
しかし、それだけではALSは乗り越えられません。意思伝達するためのツールが必要です。

わたしの場合は足でパソコンを操作します。

文字入力は右足でトラックボールマウスを操作し、左足でタッチセンサースイッチに触れて決定します。




ブログやメール、ラインなど送信するものはWordで作成したものを右クリックでコピーし貼りつけてます。
この作業が一苦労です。コピーしたい箇所を選択し、そこへマウスを合わせるために右足で右クリックしますが、一度ではうまくいかずなんどもトライします。そのため脚の疲労はかなりあります。

そこで右クリックがし易いようにスイッチを着けましたが、中々ベストポジションが見つかりません。今も試行錯誤中です。



作業能率が上がれば投稿がもっとできます。

ALS体験者でしか語れない世界をもっと皆さんへお伝えしたいのでよろしくお願いします☺






最後までお読みいただきありがとうございまし

た。

あれから8年経ちました

あの日から8年が経ちました。
2013年6月に突然右手が上がらなくなり、3ヶ月位経つと症状が肩まで拡がり、肩甲骨周辺の筋肉が痩せているように見えました。
この後も朝起きた時に突然首が上がらなくなったり、口に水分を含むとサラサラ感がなくトロミが混ざってるような感覚でした。



2014年1月16日に大学病院に検査入院しました。


2週間の入院期間中色んな検査を受けましたが、短時間で終わったり、何もなかった日もあり暇をもてあましてました。


昼食をキャンセルして外出し、市内で5本の指に入る有名鰻店へも行きました。


また、土日は自宅にいました。
携帯電話で会社とのやりとりもし、病人としての自覚がなく、兎に角仕事が気になってました。


検査で唯一辛かったのは背中に注射して髄液を抜かれた時でした。一瞬でしたが、かなり痛かったです。その他に針筋電図、MRI、CTスキャンなど受けましたが、苦痛はなかったです。


もしかしたら大変な病気なのかもしれないという不安はありましたが、日常生活が普通に送れてました。
前年秋に半日人間ドッグを受けた時は異常がなかったし、医療の最先端を行く大学病院に入院したのでなんとかなるだろうとその程度しか考えてませんでした。


看護師さんの優しさにも癒され、仕事で溜まった疲れも取れ非日常を楽しんでました。



8年前の今日1月22日は入院7日目でした。まだALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病の存在も知りませんでした。



この7日後の夜に告知を受け、絶望の淵に立たされる悲劇が待っているとは知る由もありませんでした。



毎年この時期がくると思い出してしまいます。
どうして自分だけがこんなことに⁉
ALS(孤発性)を発症した人は皆さん同じ心境だと思います。
しゃべれない、食べれない、動けない、呼吸できない病気です。この4つの障害の内の1つだけでも、過酷なのに我ながらよく生きているなあと思います。



医療介護スタッフに守られ、友人・知人からエールを送っていただいていることに感謝し、これからもがんばっていきます。






最後までお読みいただきありがとうございました。